2005-05-19 第162回国会 参議院 内閣委員会 第11号
ただいま御指摘ありました食糧メーデーですか、今や飽食の時代と言われる時代に、正におっしゃるとおり隔世の感であります。今は、生活習慣病、食べ過ぎて糖尿病になったり、銀座のこじきがという話はもう大分前の話になるわけでございまして、正にそういったことから、私どもこの食育というものをしっかりと身に付けていかなきゃいけない、こういう認識に立ったわけでございますが。
ただいま御指摘ありました食糧メーデーですか、今や飽食の時代と言われる時代に、正におっしゃるとおり隔世の感であります。今は、生活習慣病、食べ過ぎて糖尿病になったり、銀座のこじきがという話はもう大分前の話になるわけでございまして、正にそういったことから、私どもこの食育というものをしっかりと身に付けていかなきゃいけない、こういう認識に立ったわけでございますが。
今日の質問に当たりまして、朝ラジオを聞いておりましたら、一九四六年の五月十九日、食糧メーデーが今日行われたと。皇居の広場で飯米獲得人民大会、食糧メーデー、二十五万人の方々が集まって行われたというのを朝ラジオで聞きまして、隔世の感ありと、そんな思いでここに立たせていただいております。
実際、五月の十二日にはデモが皇居に押しかけるような事態にまでなっておりますし、五月十九日の食糧メーデーには、二十五万人が皇居前広場に集まり、食糧に関して天皇に対して、適切な措置をお願いするという趣旨の上奏文を決議しているほどであります。そして、今では記憶している人が少ないのでありますが、五月二十四日には、食糧問題に関する天皇の第二の玉音放送が行われておるほどであったわけであります。
デモが行われて、五月にメーデー、続いて食糧メーデーなんというのが行われたような、そういう革新勢力を重視する考え方と、もう一つは、これは幣原首相が亡くなる前にしょっちゅう言っていたことなんですけれども、日本国憲法の主要な内容は日本の為政者、当時の保守政治家がつくったものだ、特に憲法の第九条を考えていたと思うのですけれども、そういう主張がございました。
占領政策として、日本の戦後のあの食糧の足らぬ、食糧メーデーも起こったわけですが、そのあと放出をした。それは向こうから言えば、占領政策として、日本を共産主義の侵略にまかせるべきではないとして出されたものである。しかも、外国に比べてみてたいへん効果のある成果をおさめた。
国民は群れをなして隠匿物資の摘発、食糧メーデーというようなことをやりました。松島松太郎君は、「朕はたらふく食っている、汝臣民餓えて死ね」というプラカードを掲げてデモに参加し、不敬罪に問われました。天皇のお台所の実地検証というようなことが行なわれた事件もありました。
昭和二十一年五月、第一次吉田内閣の組閣中、いわゆる食糧メーデーの際に、当時書記官長に内定していました君は、首相官邸でその代表者と会い、数時間にわたり取り巻かれたが、きぜんとして一歩も引かなかったと伺っております。これも、君のしんの強さを雄弁に物語るものと存じます。(拍手) 君は、まことに穏やかな、しかも、いたずらに小事に拘泥せぬ、淡白な性格でありました。
ところが、事態はその後よほど変って参って、私の記憶しておるところによりますと、その当時の、敗戦直後の大衆行動などにはほとんど死人、けが人はなくて、たしか食糧メーデーか何かの時分に一人だけ死人が出たということが大問題になったことがありますが、それが、何年でありましたか、皇居前広場をメーデーに使わせないという処置を政府がおとりになったときに、初めてけが人、死人の相当数の者が出たと記憶しております。
必然的に憲法改正問題を処理しなければならなかったのでありますが、敗戦直後のわが国は、民主化のための憲法改正に対する積極的な心がまえができていなかったことは当然であり、現行憲法の原案となりました憲法改正草案要綱が、司令部案を骨子として、わずかな修正を加えて成立した当時のごときも、国民は、その食生活に追われていた社会不安の時期でありまして、そのころは、「憲法より飯」という標語にも表現されておるように、食糧メーデー
厳密に言えば一九四六年の五月のあの食糧メーデーが一つの向う側の占領方針の明確になった最初の時期だと思いますけれども、しかしそういう、たとえば食糧メーデーのときに、対日理事会において、アメリカ側があのような発電をしたというような事実はあるとしても、少くとも日本の制度の民主化ということは、やはり向う側としては連合国に負う責任としてマッカーサーを初めとしてむしろとらざるを得なかったと思うのです。
○安部委員 日本共産党は昭和二十一年のメーデーに引続き、食糧メーデーによる吉田内閣実現阻止の攻勢、これが昭和二十二年一月末に最高潮に達したものである。いわゆる二・一総ストの問題、それから昭和二十四年の労働夏季攻勢というようになつている。食糧メーデーが敢行された際には、東京では二十万の大衆が動員されて、いわゆる宮城デモンストレーンヨンがあつたのであります。
いつでも都会にだけ遅配、欠配ありと騒いで、そこらで食糧メーデーなんかやると物珍らしく思つておりますが、実は農村側にも大きな遅配、欠配があるということをはつきりとして頂きたいと思います。
それはヤマサ農機具の方は、生産管理について合法の場合があり得るという考を持つておるのでありますが、その考え方は昭和二十一年の食糧メーデー前後に現われました一部の学者の、いわゆる理想型生産管理合法論という域を多く出ていないというふうに考えておるのであります。それに対しまして、大和製鋼の方の判決は結論はともかくといたしまして、理論的には一つの進歩を示しておると私は考えております。
むしろメーデーから食糧メーデーといつたような調子で、ああいう労働組合の経済的闘爭というような方法以外の闘爭形式が取られたりなんかしていたような時代でもあつたのでありましよう。 労働委員会としては、初めて調停らしいことをやりましたのは、九月に國鉄の爭議がありました。これは今度又非公式に出て参りまして、斡旋的なことをしたのであります。初めて十月に電産のストがありました。
第二の点は、供出制度の改革をもくろんで、農業生産調整法や、あるいは國営開拓法案、または農業協同組合法案等、生産向上のために数々の新制度が行われんとしていることは、当を得たものと思うのでございますが、当面の食糧問題は、昨年も食糧メーデーが大々的に行われ、今年もまたそれを身をもつて体驗しておる状態であり、しかも平野農林大臣が言明せられましたごとく、貿易再開するとも、諸種の関係より、ここ二、三年は外國よりの
しかるに、その前において食糧メーデーが行なわれるや、ただちに米價は上つた事実がある。今日経済白書を出すことによつて、地獄の底へ引き込まれるような氣になつた。この結果はどうなる。ある者は買溜め、ある者は買惜みをすることにきまつているのであります。 われわれは、ここにおいて、現内閣の政治に対するところの理解力の貧困に、驚かざるを得ないのであります。